こんなことを書くことに意味なんてない。

1度目の上映会を終えてから何かを書き残しておこう、と思って数日が過ぎた。2度目であり最後の上映会を迎えようとしている。実際は迎えようとしている、というほどではないのだけれども。兎も角、時間はあっという間に過ぎる。昨日から今日、今日から明日。

今日は受験以来久々に中国語の塾に顔を出す日だ。色々と迷惑もかけた。半年くらい前の話だ。

同じように新宿線に乗って、ゆらゆらと新宿三丁目まで向かう。あの頃は、この時間を使って何をしていただろうか。パソコンを忙しそうに開いて、データを作って、送付して、、。なんて思い出していたら頭がクラクラしてくる。ゆらゆらとした音楽だけが耳に残る。宙に浮いたような感覚になる。座席には座っているのに、どこか地に足がついていないような、無機質な世界の中で呼吸をさせられているような感覚に襲われる。

違う曲を流す。こんなことをベタに書けてしまう僕にそもそも「文学」なんてものは存在しない、なんてまたまた書いてしまう。あの頃聴いていた音楽が、見ていた世界がなんだったのか、そんなことは全く思い出せない。

兎も角、時間はあっという間に過ぎる、過ぎていった。

「映画」は、僕の世界をまた小さくしてしまったようだ。
また小さくして、たまたま近くにいた人と握手をして、ニコニコしている、そんな時間が流れている、65分間。

いつのまにか「世界」と呼ばれるようになった空間は、またも宙に浮いたまま非日常の中で溶け込めずにどっちつかずのまま遊んでいる。そろそろその日常と非日常を往復することも難しくなってきている。
最近気付いたことなのだが、実はその「2つの場所」の中間にも列記とした空間が存在するということだ。その新たな「世界」の構築こそが「セカイ」からの脱却であり、「卒業」という名札をつけて桜に背を向けて歩き出すことができるのではないか、なんて。(ここにアイロニーがあることにどれだけの人間が共感できるのか、という話)。、

そんなつまらないことを考えながらメモ帳にこんなことを書いている。両隣に座っているサラリーマンは疲れたように眠っている。そんな、昼過ぎの中に生きている。美味しい昼食でも食べたのだろう。誰かの昼食を想像するだけでなぜか吐きそうになる。各駅停車の都営新宿線。久々の電車は慣れない。また違う曲をかけようと、プレイリストを眺める。眺めるだけで、同じ曲が流れ続けている。

同じ日常が流れ続けている。そこにシニカルな笑いは生まれない。既に。「既に」、そんな無責任さを包容して、また次のことを考える。

前を向いて歩いているようで、後ろ歩きをしてしまう。後ろ歩きをしているようで、実は前を向いている。

ぶっちゃけどっちでも良い。

「兎に角、時間はあっという間に過ぎていった。」

僕が今日この瞬間に言いたいことはそれだけだ。

くだらないことを書いていたら、すぐに新宿三丁目駅に着いた。

ため息をつく。

こんなつまらないことは忘れて、明日の今には異国の電車に乗りながら違うことを考えているのかな、なんて思う。こんなこと言語化しても意味はないのに、そんなことばかりしてしまう。

言語化しなくても時間は過ぎていくのに、そこに意味を乗せたいと思うのは何故なのだろうか。

 

帰りは神保町で降りよう。二郎を食べよう。

 

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