2017.05.22

足りないくらいなら余る方が良い

近所の集会所で開催される「オヤジの会」では余るほど多くの惣菜や酒やソフトドリンクが机に並べられ、ちょうど食べ尽くすなんてことがあると次回への反省として、「もっと多く食べ物を用意すること」と引き継がれる。

中国に行くと、余るくらい多くの料理が出てくる。お腹いっぱいになると「吃吧!吃吧!(食べな食べな)」とら「要不要吃?(食べるよね?)」と言われ、また食べる。それでも料理は無くならない。

飛行機では、定員オーバーすると中国人が引きずり出される。お金は貰えるが、時間は貰えない。

1車両定員140人のJRに370人ものサラリーマンが乗り込んでくる。地下鉄に乗ると、”余る程多くのサラリーマン”と一緒に途中駅まで吐息をぶつけ合うことになる。自分が”余”っているかどうかは関係ない。

そんな地下鉄で、本を読んだり、snsで誰かの文章を見たり、何十スクロールもして情報を流したり、何かを書いていたら乗換駅に着く。

乗り換えるとまたも同じ景色が続いている、訳ではない。

7時少し前にはガラガラだった電車が、30分もすると”余る”人間が出てくる。9時を過ぎると、急に定員の足らない電車になる。

そんな変わりゆく景色の中で、

僕は文章を書いている。

売れない芸人の多くは、サイゼリヤで安く滞在しながらネタを考えるらしい。脳裏は全てミラノ風ドリア。もしかしたら辛味チキンかもしれない。それか、ペプシコーラ。

僕は家で何かをツクることができないから、外に出る。同じ匂いの場所の中では、同じものが繰り返し産出されていくだけなのだろう、と勝手に思う。

勝手に俯瞰して、モノやヒトを類型化してしまう。過剰と不足を足し算して、勝手にプラスマイナスゼロにしたくなる。ハマらないパズルピースは力ずくではめる。

ミラノ風ドリアより安いタマゴサンドイッチを咥えながら、こんなくだらない文章を書いている。

過剰なものよりは、少し足りないくらいの文章を書きたいと願い、また指を動かす。インスピレーションを働かせる。
しかし、

“それ”は何故?

そこらへんで”余”っているサラリーマンに聞いた方が早いのかもしれない。中耳炎になりかけているから、回答を聴くことはできない。
そんなもんだから、またくだらない文章が生まれて行く。

惰性でモノを描写していることに気付かない、20代近くの少年の話でした。

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